リコー三愛グループの創始者 市村清に学ぶビジネスチャンスのつかみ方
市村清
リコー三愛グループの創始者
1900~1968
できない理由を考える前に、できる方法を考えてくれ
市村清は、佐賀県の生まれである。
農業を営む市村豊吉の長男だった。
幼い頃から頭脳明晰で、地元の名門・佐賀中学校(現在の佐賀県立佐賀西高等学校)に入学するが、実家の家計が苦しくなったため、二年で中退する。
その後、行商などさまざまな仕事をして実家の困窮を救った市村は、銀行という安定した職場に就いたのを機に中央大学の夜間部へ入学した。
だが、、大正十一年(1922)に日中合弁で作られた大東銀行への就職話を持ちかけられたため中退し、北京へ渡った。
ところが、大東銀行は昭和二年(1927)に閉鎖されてしまう。
やむなく帰国した市村は、保険の勧誘員になった。
その後、感光紙(昔のコピー機に使用する紙)の営業マンになった市村は、全国の売上げの半分を一人で達成するトップセールスマンとなった。
その功績が認められ、彼は感光紙部門の部長に大抜擢。
そして昭和十一年に独立して理研感光紙株式会社を設立した。
これが後のリコーになったのである。
市村は「人の行く裏に道あり花の山」を座右の銘とし、その考えを実践してきた人物だった。
たとえば、昭和二十五年に発売した「リコーフレックスⅢ」というカメラは、はじめに「いままでの十分の一以下の価格で売る」という目標を掲げ、その価格で売るにはどのような方法で生産すればいいのかを考えた、いわば逆転の発想から生まれたカメラだった。
また、現在も銀座四丁目に立つ「三菱ドリームセンタービル」は、「お客を動かさず、建物をまわして商品の方を動かす」という、これも逆転の発想から生まれたものだ。
ときとして、人は「できない」「無理だ」と相手に伝えるため、頭をひねってその理由や言い訳をあれこれ考えることがある。
だが、これは後ろ向きの努力だ。
どうせ努力するなら、前向きの努力-どうすればできるかを考えるべきではないか。
市村は、営業マン時代には努力という方法で、そして会社の社長になってからは逆転の発想という方法によって次々と「できない」を「できる」に変えていったのだ。
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