電力王といわれた松永安左エ門の失敗から学ぶ成功学
松永安左エ門
電力王といわれた財界人
1875~1971
同じものでも考え方ひとつ。 やる奴はやるように考えるし、へこたれる奴はへこたれる方へ考えてしまう。
松永安左エ門は、長崎県壱岐島の商家に誕生した。
中学時代に「学問のすすめ」を読んで福沢諭吉に憧れ、慶應義塾に入学。
しかし、父親の死によって中退を余儀なくされてしまい、三井呉服店(現在の三越)、日本銀行などに勤める。
その後、慶應義塾で知り合った福沢桃介とともに福松商会という石炭商を始める。
この事業で一定の成功をおさめた松永は、福岡の市電を運営する福博電気軌道株式会社の設立に参加、ここで初めて電気事業に携わる。
電気の需要が伸びることを予想した松永は、その翌年に九州電気を設立したのを皮切りに、関西、名古屋の電気事業を一手に引き受けるまでになった。
次に、松永は東京進出を目論む。
だが、当時、複数の電気事業者が供給を行っていた首都圏の電気事業はほぼ東京電燈の独占状態となっていた。
凡人なら「東京電燈がいるからダメだ。止めよう」と諦めているはずだ。
しかし、冒頭の言葉どおり、松永は「やるように考える奴」だった。
彼は、東京電力を設立し、火力発電という当時の最新技術を使って低コストな電力で東京電燈に戦いを挑んだのである。
同じ電気なら安い方がいいと消費者が思うのは当然のこと。
東京電燈のシェアは急激に小さくなって、ついに東京電力へ「合併させてほしい」という話がやってきた。
松永は、東京電燈の筆頭株主と取締役の地位を要求。
それが全て認められたことによって、「電力王」と呼ばれるようになった」
戦争の激化により、電気事業が国の管理下に置かれることになったときも、松永はへこたれなかった。
軍のいいなりになっている政治家や官僚を公の場で「人間のくず」と批判したのである。
「このままだと命が危ない」という周囲の忠告で第一線から退いた松永だったが、筋の通らないことには首を縦に振らない気骨は、現代のビジネスマンや経営者たちも大いに見習うべきだろう。
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