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野村財閥の創始者 野村徳七から学ぶ「成功するビジネスの秘訣」
野村徳七
野村證券をはじめとする野村財閥の創始者
1878~1945
常に一歩前進することを心がけよ。 停止は退歩を意味する。
野村徳七は、両替商を営んでいた初代野村徳七の長男として大阪府に生まれた。
幼名は信之助という。
府立大阪商科大学(現在の大阪市立大学)へ進学したものの、肺炎にかかり中退。
その後、家業を手伝い始める。
明治37年(1904)に家業を継ぐと、両替だけでは今後立ちゆかなくなることを予見して、株の売買取り次ぎ業務を行う大阪屋商店を開業。
丁稚制度を廃止して新卒者を採用したり、調査部の設置、さらに、多くの電話を引いて一度に多数の売買をするなど、当時としては画期的ともいえる経営で同商店を短期間に発展させたのだ。
野村は、明治40年に起きた株式相場の大暴落を予想し、それによって当時のお金で500万円(現在の500億円)以上を稼ぎだし、それを元手にして大正6年(1917)に大阪屋商店を野村商店に改組。
その翌年には大阪野村銀行(後の大和銀行)、大正14年には野村證券、昭和8年(1933)には野村信託、昭和9年には野村生命保険(後の東京生命保険)と、次々に金融関連企業を設立していった。
さらに野村は、海外にも進出する。
東南アジア各国にゴム工場やコーヒー農園、鉱山などを開発し、野村東印度殖産、野村鉱業、野村殖産貿易などの会社を設立。
こうして野村が設立した会社は25社にも達し、住友に次ぐ野村財閥が完成。
野村は多額納税者として貴族院議員に推されたほどだった。
野村は、とどまることを極端に嫌った。
明治40年に起きた株価大暴落のときも、周囲より一歩前進していたからこそ、500万円もの大金を稼ぐことが出来たのだ。
ただ、先に進むということは大きなリスクを抱えるということでもある。
このときも、野村の予想に反して株式は当初上昇を続けた。
野村は資金繰りに窮し、あと一歩で会社倒産というところまで追い詰められた。
だが、鴻池銀行(後の三和銀行)の援助でそのピンチを乗り越え、ついに暴落が始まったのだ。
成功が望みなら、リスクを承知で進むしかない。
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