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本田宗一郎とともに本田技研工業を世界的な大企業に育て上げた藤沢武夫から学ぶ「成功するビジネスの秘訣」
藤沢武夫
本田宗一郎とともに本田技研工業を世界的な大企業に育て上げた
1910~1988
重役とは未知の探求をする役である。 重役が未知の探求をしないで後始末ばかりをしている掃除屋であってはならない。
藤沢武夫は、東京の裕福な家庭に生まれている。
しかし、関東大震災で父が仕事を失い、一転して貧しい生活を余儀なくされることになる。
旧制京華中学校を卒業した藤沢は、授業料がかからない東京高等師範学校を受験したが失敗。
さまざまな仕事を転々とした後、昭和9年(1934)に「三ツ輪商会」という鋼材小売店に就職する。
他人と口をきくのも苦手な藤沢だが、じてゃ商才が備わっていたらしく、店主が出征してからは店をよく切り盛りしたという。
太平洋戦争の前夜そして開戦を受けて、国内外の鉄の需要はうなぎ登り。
そこで藤沢は昭和14年に「日本機工研究所」を設立し、切削機械を作り始めた。
しかし、戦争が激化したために福島へ疎開。
終戦後も福島で仕事を続けていた。
昭和24年、藤沢はエンジニアから本田宗一郎を紹介された。
当時の本田技研は、生産が間に合わないほどオートバイが売れていたが、代金の回収がうまくいっておらず、販売が好調にかかわらず倒産の危機にあるというおかしな状態だった。
それを聞いた藤沢は、宗一郎のために一肌脱ごうと決心し、その年の10月には福島の事業を整理して本田技研の常務に就任。
経営部門を一手に引き受け、技術面を担当する宗一郎とともに、本田技研を世界のホンダに育て上げた。
営業面ばかりに注目される藤沢だが、宗一郎以上にチャレンジ精神を持っていた。
たとえば、ホンダの名を世界に轟かすきっかけになった「マン島TTレース(イギリスにある島で毎年開催されるオートバイレース」への出場を決断したのは、宗一郎ではなく藤沢だ。
彼は自身の言葉どおり、常に「未知の探求」をし続けていたのである。
重役たちが頭を下げるシーンが毎日のようにニュースで流れている。
藤沢のいうところの「掃除」である。
「重役は責任を取るのが仕事」という人もいるが、同じ責任を取るなら未知の世界へ挑戦して、万が一失敗したときに責任を取るべきではないか。
挑戦もせず、後始末ばかりやっている企業に未来はないだろう。
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